「主体と客体の非二元性」の実現「正覚者ガウタマ・シッダールタ」

正覚者ガウタマ・シッダールタは、ブラフマン教(バラモン教)のヨーガ苦行者の誰もが目指していた「さとり」に達した。
古代インドのブラフマン教では聖典ヴェーダの研究のため、ギリシャよりも数百年早く哲学を発展させた文明で、「六派哲学」と呼ばれる学派を形成し、互いに議論し合っていた。論破できれば名声を得ることができた。シッダールタはインド各地で論破して回った。その度に弟子が増えていった。
シッダールタは、ウパニシャッドに名を連ねている高名な哲学者たち「シャーンディリヤ」「ウッダーラカ・アールニ」「ヤージュニャヴァルキヤ」の理論を継承し「さとり」に達した正統な哲学者として尊敬を集め、ヨーガでも使われる言葉「buddhi(知性)」を極めた人として「buddha(仏陀)」と呼ばれた。六派哲学のどれにも当てはまらない、新しい学派を形成した。

シッダールタはヤージュニャヴァルキヤの教説を発展させた偉大な哲学者であったため、正統なウパニシャッドに名を連ねることになったが、シッダールタの学派は正統とは認められず、六派哲学に加えられることはなかった。シッダールタの教説はもはやブラフマン教の枠に収まらない究極の真理を解明してしまったからである。ブラフマン教がヒンドゥー教に代わる原因となった。
それほどの衝撃を与えたシッダールタの教説をパーリ仏典(Tipitaka)の2番目にあたる経蔵(Sutta Pitaka)五部のうちの相応部(Saṃyutta Nikāya)から引用しよう。日本語訳は中村元博士である。

サーヴァッティーにて。
修行僧らよ。わたくしがさとりを開くよりも以前に、まださとりを開いていないで、ボーディサッタ(仏となるべき人)であったときにこのように思った、――「眼の耽溺とはなにであるか? 患いはなにであるか? 出離はなにであるか? 耳の耽溺とはなにであるか? 患いはなにであるか? 出離はなにであるか? 鼻の耽溺とはなにであるか? 患いはなにであるか? 出離はなにであるか? 舌の耽溺とはなにであるか? 患いはなにであるか? 出離はなにであるか? 身の耽溺とはなにであるか? 患いはなにであるか? 出離はなにであるか? 意の耽溺とはなにであるか? 患いはなにであるか? 出離はなにであるか?」と。
そのときわたくしはこのように思った、――「眼を縁として快楽と喜悦とが起こること、――これが眼の耽溺である。眼が無常であり、苦しみであり、変滅する本性をもっていること、――これが眼の患いである。眼に対する欲望と貪著とを制すること、欲望と貪著とを断ずること、――これが眼の出離である。耳を縁として快楽と喜悦とが起こること、――これが耳の耽溺である。耳が無常であり、苦しみであり、変滅する本性をもっていること、――これが耳の患いである。耳に対する欲望と貪著とを制すること、欲望と貪著とを断ずること、――これが耳の出離である。鼻を縁として快楽と喜悦とが起こること、――これが鼻の耽溺である。鼻が無常であり、苦しみであり、変滅する本性をもっていること、――これが鼻の患いである。鼻に対する欲望と貪著とを制すること、欲望と貪著とを断ずること、――これが鼻の出離である。舌を縁として快楽と喜悦とが起こること、――これが舌の耽溺である。舌が無常であり、苦しみであり、変滅する本性をもっていること、――これが舌の患いである。舌に対する欲望と貪著とを制すること、欲望と貪著とを断ずること、――これが舌の出離である。身を縁として快楽と喜悦とが起こること、――これが身の耽溺である。身が無常であり、苦しみであり、変滅する本性をもっていること、――これが身の患いである。身に対する欲望と貪著とを制すること、欲望と貪著とを断ずること、――これが身の出離である。意を縁として快楽と喜悦とが起こること、――これが意の耽溺である。意が無常であり、苦しみであり、変滅する本性をもっていること、――これが意の患いである。意に対する欲望と貪著とを制すること、欲望と貪著とを断ずること、――これが意の出離である。」
わたくしがこのようにこれらの内的な六つの領域(六処)の耽溺を耽溺として、患いを患いとして、出離を出離として如実に知らなかったあいだは、神々・悪魔・梵天とともなる世界において、神々や人間・梵天・修行者・バラモンを含む生類のうちにあって無上の正しいさとりをさとったと称することはなかった。ところがわたくしはこれらの内的な六つの領域の耽溺を耽溺として、患いを患いとして、出離を出離として如実に知ったから、神々・悪魔・梵天とともなる世界において、神々や人間・梵天・修行者・バラモンを含む生類のうちにあって無上の正しいさとりをさとったと称したのである。
そうしてわたくしに智と見とが生じた、「わが心の解脱は不動である。これは最後の生存である。もはや再生することはない」と。

(サンユッタ・ニカーヤ)

引用文の解説を次回に書くことにする。

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