正覚者ガウタマ・シッダールタは「さとり」について、前回の引用文のように詳しく語っている。
これを理解する前は「私はさとっている」と言わなかったが、これを理解してからは「私はさとっている」と言うようになった。いわゆる「さとり」の核心部分である。
引用文では眼、耳、鼻、舌、身、意の「六処」と呼ばれる人体の器官によってシッダールタの解説がされている。意は意識なので厳密には器官ではないが、脳機能のようなものと思っていただければよい。医学における重要な「意識があるか」や「依存性はあるか」といった際に問題になる意識である。
「眼の耽溺とはなにであるか?」の一連の問いでは、「見えるもの」を問題にしている。眼球の渇きやアレルギー症状は論外だ。
目に見えるもので浸り溺れてしまうものといえば、美しいものであろうか。あるいは名声を得たときの人々の眺望の眼差しであろうか。とにかく「見てうっとりする」ものである。
それらを縁にして、興奮と喜びが生まれるという。
一般的にはそれはよいこととされている。美男美女になれるよう努力したり、おしゃれにお金をかけたり、人々から羨ましがられるように優勝や成功を手に入れることは尊敬されているものだ。
しかし、シッダールタはその喜びが一過性のものだという。ある美しい人が「美しい」と言われれば言われるほど、そのときは喜びに満たされても、次の瞬間には別の人が美しいと言われているかもしれない。常に美しいと言われ続けることは絶対に不可能だとシッダールタはいう。
自分以外の人が美しいということは、自分はその人より美しくないということになってしまう。そこから嫉妬心が生まれ、苦しみが生まれる。スポーツなどで優勝しても、成功して長者番付で一位になっても、やはり嫉妬心が生まれ、苦しみが生まれる。美しいと言われなければ、優勝しなければ、成功しなければ、このような苦しみを味わうことはない。
これをシッダールタは「眼の患い」と表現する。
このような話を聞けば一般の人は、説教されているような不快な気持ちになり、「じゃあ、生きていく喜びがなくなるではないか。楽しみがなくなるではないか」と憤慨してしまうのが普通であろう。聖人君主であるまいし、欲をもたず努力だけしなさいというのは、とても希望を見いだせない。それが真理というならば、むしろ生き地獄というものだろう。
実際、仏教はそう誤解されてきた歴史がある。日本の僧侶も修行によって我慢強くなる練習をして、欲をもたないようにしていると社会的には認知されている風潮がある。むしろ、我慢できることそのものが尊敬の値があるかのようである。
シッダールタは何も我慢しなさいといっているのではない。
「眼に対する欲望と貪著とを制すること、欲望と貪著とを断ずること」が「眼の出離」だという。「制すること」や「断ずること」が「我慢すること」と誤解されるのは、文章の流れでは自然であり仕方がないとはいえる。普通に読解すれば誰もが「我慢すること」という意味にとる。
本当の意味は、引用文の最後の部分、「さとり」の核心部分に書かれている。最後まで読んで本当の意味がわかる仕組みになっている。
どのような記事でも、どのような物語でも、一部だけを読み取って解釈すると大きな失敗をする。有名人がインタビューで悪意ある編集をされたと憤慨する話はよく聞かれるものだが、人の話は最後まで聞かないとわからないものだ。
改めて最後の核心部分を引用させていただく。
わたくしがこのようにこれらの内的な六つの領域(六処)の耽溺を耽溺として、患いを患いとして、出離を出離として如実に知らなかったあいだは、神々・悪魔・梵天とともなる世界において、神々や人間・梵天・修行者・バラモンを含む生類のうちにあって無上の正しいさとりをさとったと称することはなかった。
ところがわたくしはこれらの内的な六つの領域の耽溺を耽溺として、患いを患いとして、出離を出離として如実に知ったから、神々・悪魔・梵天とともなる世界において、神々や人間・梵天・修行者・バラモンを含む生類のうちにあって無上の正しいさとりをさとったと称したのである。
(サンユッタ・ニカーヤ)
「耽溺を耽溺」「患いを患い」「出離を出離」として知らなかったときは、正しい「さとり」であるとは思わなかったという。ここには「出離すればさとり」とは一言も書いていない。
「欲望と貪著とを制すること、欲望と貪著とを断ずることが出離」だとすれば、「出離できればさとる」というはずである。欲望と貪著とを制すること、欲望と貪著とを断ずることで聖人君主のように清らかな、我慢強い人になると一般的には思われているが、シッダールタはそのことを大切だとはひとつも語っていない。
「耽溺を耽溺」「患いを患い」「出離を出離」として知ったから、正しい「さとり」を得たとシッダールタは、本当の「さとり」の核心部分をいっている。
これが「主体と客体の非二元性」である。
次回、「主体と客体の非二元性」を書こう。ノンデュアリティの核心部分になる。
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