「主体と客体の非二元性」の発見「哲学者ヤージュニャヴァルキヤ」

非二元(ノンデュアリティ)の英語版Wikipediaを見ると、「主体と客体の非二元性」の起源は曖昧になっている。現代のスピリチュアリティに見受けられるとしか記載がない。

“Nondual consciousness”, the non-duality of subject and object; this can be found in modern spirituality.

Nondualism – Wikipedia

ブラフマン教(バラモン教)聖典ヴェーダ奥義書ウパニシャッドを調べると、紀元前7~前6世紀の哲学者ヤージュニャヴァルキヤの「ネーティ・ネーティ・アートマー」が近いように思われる。
ヤージュニャヴァルキヤは「宇宙=神=自分」であるなら、「『宇宙=神』は自分自身を見ることができない」と考えた。
例えば、眼球(主体)は自分自身(客体)を見ることができない。
意識も認識主体なら自分自身を客体として認識することができない。
あなたは「自分が悲しいと感じている」とか「自分が楽しいと感じている」といった認識ができると思っているかもしれない。ヤージュニャヴァルキヤは「自分で自分が○○だ」と認識しているときの「自分が」は「自分本体ではない」という。「自分が」というときの「自分」は心の中で生み出された「架空の自分」であると言い切る。
「自分本体」を認識するためには、「~ではない(ネーティ)」「~ではない(ネーティ)」というようにすべて否定していくしかないという。

これではさすがに説得力があるとはいえない。
理想の料理を完成させるためには「これは理想ではない」「これは理想ではない」と料理を作って食べるたびに否定するしかないと言っていることと似ている。いつまでも見つかることはないだろう。
とはいえ、ヤージュニャヴァルキヤがいう「認識主体は客体になりえない」という理屈は正しいと思われる。

この問題を解決したのが正覚者ガウタマ・シッダールタである。
シッダールタは「~ではない(ネーティ)」という手法を取らなかった。
初めて具体的な方法を見つけたのである。

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