この写真を見て、あなたはどう思うだろうか。
夫である男性が、妻である女性に、掃除を手伝えと叱られている?
それとも、ふたりは兄妹で、遊びに行こうとしている兄に、妹が掃除を手伝えと叱っている?
想像力が豊かな人なら、このふたりは恋人同士で、浮気がバレた彼氏が浮気相手に電話をさせられていて、浮気相手を呼ぶように指示され、彼女が浮気相手と喧嘩する態勢に入ってると考えるかもしれない。
ふたりのあいだにトラブルがないなら、家の外に不審人物がいて、女性が思わず玄関で武器を持って、男が警察に電話をかけているかもしれない……。
いずれにしても、これらの想像は写真の中の登場人物の事情を推測しているだけである。ここまでならなんら問題がない。
正覚者ガウタマ・シッダールタが問題にした「眼の患い」とは、次のようなことをいう。
この写真を見た人が女性の場合
- 男って、全部、女に任せて、いつも勝手なことするよね。また嘘ついて遊びに出かけるつもりよ(怒)
- この男、絶対に浮気したんだわ。だから男って信用できないのよね(怒)
- 私にはこんな口論できるパートナーがいない。早く結婚したいなあ(泣)
この写真を見た人が男性の場合
- 女って、仕事の電話が入ったっていうのに、全然、信用してくれないんだよな(怒)
- 掃除なんかいつでもできるだろう。休みの日くらい自由にさせてやれ(怒)
- この男、しくじったな。どうせ別の女からの電話だろう(笑)
- こんな美しいパートナーがいて羨ましいよ。自分も愛してくれる彼女がいたらなあ(泣)
この込み上げてくる感情が、よいものであっても、悪いものであっても、たいていの人はなぜかどれかひとつだけの感情が湧く。もちろん、ほとんどが悪い感情だ。
これを「眼の患い」という。
「出離」と「さとり」のちがい
では「出離」とはどんな場合か。
あなたがこの写真を見て、つい込み上げた感情が不愉快な感情だった場合、そばにいた友人がまったくちがう感情を語り、あなたと感じ方がちがうと知ったとき、「私のほうがまちがいないよ」とあなたが思った場合は「出離」は絶望的である。
あなたが友人の感じ方にも「なるほど。それもありうるね」と共感したとき、自分の感情が和らぐものであろう。見た人間によって捉え方がちがうということは、あなたに込み上げた感情も思い込みかもしれないと思えるようになる。すると、「怒り」や「悲しみ」が案外、和らぐのだ。
これを「出離」という。
出離の体験を繰り返して、人の体験を聞いたときに「そうとは限らない」と思えるようになっても、いざ自分が同じような体験をすると、出離ができないというのは非常に多い。人にはアドバイスはできるが、自分のことは悩んでしまって対処できないというのはよく聞く話だろう。
シッダールタは、「耽溺は耽溺として、患いは患いとして、出離は出離として、如実に知ったから」、それが「さとり」だという。
この写真で例えるなら、「恋人がいて羨ましいな」「キレイな彼女だな」という耽溺も、「男は信用できないな」「女はいつも信用してくれないな」「女がいつも不利だな」「なんでイケメンじゃないのにこんな美人と付き合っているんだ?」という患いも、「写真を見て、人によって体験がちがうから、捉え方も変わるんだな」という出離も、全部「それが耽溺」「それが患い」「それが出離」と気づくことが「さとり」だということなのだ。
「はっ? それじゃあ、解決にならないだろう!」と納得できない人が多いことだろう。
シッダールタがわざわざ眼、耳、鼻、舌、身、意といった五感と心で例えたことが、ここで意味をもつ。「結局、どんな耽溺も、どんな患いも、どんな出離も、あなたの五感と心で作り上げたもので、実際の相手とは関係ないでしょう?」ということである。たとえ、あなたが実際に似た体験をしていても、同じ結果になると思い込んで感情が込み上げただけのことであって、それさえも勝手に自分で作り上げたものだということになる。
「耽溺とはそういうもの」「患いとはそういうもの」「出離とはそういうもの」と知って、「自分の思い込みで感情が込み上げる」と気づいたとき、その瞬間に人は不思議な感覚を体験する。
「そういうものなんだあ」と知ることではそうならない。「知識として気づいた」としてもこの体験はできない。「いいな」と思う耽溺も、「嫌だな」と思う患いも、「ちがったね」という出離も、全部ただの思い込みであって、実際には初めから存在していないし、思い込みと気づいて何かを学ぶ成長も、信じていいという感動も本来ない。
全部、幻で、あなたを苦しめるものは初めからないし、これからもない。
そういう目覚め、解放が起きる。これをシッダールタは「さとり」と表現したのだ。
次回、シッダールタの「さとり」と非二元の「覚醒」「解放」とのちがいに触れる。
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