「主体と客体の非二元性」を掘り下げる

私は非二元(ノンデュアリティ)と「主体と客体の非二元性」をあえて区別して挙げておきながら、内容は非二元そのものを話してきた。もちろん、このふたつは広義と狭義の関係にある。
非二元にはあって「主体と客体の非二元性」にはないものを書くことにする。

前回までにわかりやすく書いたとおり、「主体と客体の非二元性」とは「取り組んでいる自分を客観視せずに、取り組むことそのものに専念する」ことである。受験で例えるなら「受かることも落ちることもライバルのことも過去の自分の失敗のことも考えずに、試験問題を解くことに集中する」ということである。いわゆる「解くことに集中し過ぎて自分自身だけではなく時間も忘れている状態」である。これを日本語では「無我夢中」「没頭」などと表現する。
この状態になると、自分自身を妨害する自我がいないために、最大限の能力を発揮できる。近年注目されている「フロー状態」または「ゾーンに入る」と呼ばれるものと同じ状態である。

紀元前10~前6世紀の古代インドのブラフマン教(バラモン教)聖典ヴェーダに「ヨーガ」「ユジュ」という単語がある。「自分と対象とを結んで、対象のパワーを得る」といった意味合いのものである。ヴェーダではもっぱら呪文(明呪)を唱えることでそれを実現しようとした。
その後、紀元前8~前6世紀の古ウパニシャッドの時代に、私がブログで取り上げた哲学者たちが登場する。彼らは「自分と対象とを結んで、対象のパワーを得る」というヴェーダの考え方を受け継いで、瞑想によって自分と宇宙を結ぼうとした。ここで初めて呪文(明呪)を使わない、現代と同じヨーガが誕生する。そしてこれこそが「主体と客体の非二元性」の起源でもある。ところが「結ぶ瞑想」をしてなぜ不思議な体験が起きるのかについて、誰も説明できなかった。これこそが「ヴェーダの偉大さを証明するもの」とさえ曲解された。

偶然にもできた哲人シャーンディリヤ・ヴィディヤや哲人ウッダーラカ・アールニは伝授する方法を見出せなかったが、同じく偶然できた哲人ヤージュニャヴァルキヤが初めて「ネーティ・ネーティ・アートマー」といったヒントを残した。「ネーティ(~ではない)」と繰り返すことで「とにかく、真理がわかる」とした。それは先ほど書いた「自分を妨害する自我」を打ち消さなければ「主体と客体の非二元性」は確立できないというものと同じだ。手法確立の大きなヒントになった。彼は「無我夢中」「没頭」が重要だと気づくことはなかった。
そしてついに正覚者ガウタマ・シッダールタが「主体と客体の非二元性」として明確に打ち出した。「耽溺」「患い」「出離」をそのままに見ることで、苦しみが消えると。

シッダールタは手法として残したが、シッダールタ自身が言葉を残していない上に、シッダールタはひとりひとりちがう「耽溺」「患い」「出離」をそれぞれ向き合って外してあげる努力を続けた。手法とその実践を見せたシッダールタだったが、「主体と客体の非二元性」「無我夢中」「没頭」が重要だとは言葉にできなかったか、あるいはしたのだが弟子たちが残さなかった。
その残さなかった理由が「耽溺」「患い」のはかなさを説明することに注力したからだ。その内容こそが「非二元性(ノンデュアリティ)」である。

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