正覚者ガウタマ・シッダールタは「非二元性(ノンデュアリティ)」としての意味の「中道」から、「煩悩」と「苦」の二元論を打ち出し、煩悩がなくなれば苦も消えるとした。
煩悩とは、「貪欲(とんよく)」「瞋恚(しんに・しんい)」「愚癡(ぐち)」のみっつをさす。貪欲とは「『私』が存在すると思い込んでいること」、瞋恚とは「思いどおりにいかないと腹を立てること」、愚癡は「二元の苦しみに気づかないこと」だ。
ここまできて、記事の書き方を変更しようと思う。
私は、私の仏教の知識が非二元の言葉に言い換えたらどのように符合するか、確認しながらほぼ毎日執筆してきたが、書きながらの研究のため、どうしても遡って訂正したいところが出てきてしまう。極力ないように心がけてきたが、そのたびにじっくり資料を確認して、更新が間に合わなかったりする。
そして今回の記事でも、知っていればもう少し早い段階で取り上げておきたかった事実が出てきたので、もう私は観念した。
リアリティ重視で、私の分析の変遷も書き残すことにした。
今回の記事の、私が観念した事実とは「貪欲」とは「『私』が存在すると思い込んでいること」だそうだ。一般的に「貪欲」は「欲しがる心」「求める心」といわれているのに、今回の資料では『私』が存在すると思い込んでいるから欲しくなるのだという。このような解説は初めて聞いた。私自身、覚醒状態を維持できるよう努力しているが、このちょうどよいタイミングで大切な理解が訪れることは「恩寵」ではないか。
ここ数日で「中道」=「非二元性」と言い切ることも勇気がいるものだったが、「貪欲」=「『私』はいない」もなかなか想定外な符合だ。
さらに「愚癡」の意味も「二元の苦しみに気づかないこと」をさすようだ。
ブッダ(ガウタマ・シッダールタ)の言葉が非二元によって翻訳されていく。
これは本当に凄いことだ。
この方式でいけば、「法(仏法)」とは「非二元」、「慈悲」とは「恩寵」ということになるだろう。
記事タイトルで書いた「此縁性縁起」とは「二元の片方がなくなると、もう片方もなくなる」という法則をいう。此縁性縁起から二元は幻だと受け入れ、貪欲を知って「私」がなくなり、全体と一体となって、恩寵だけになったとき、そこには愛しかなく、平和しかなくなる。
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