非二元(ノンデュアリティ)では、インド哲学でいわれる「現実は心が生みだした幻想である」という考え方を採用している。ありえない話に聞こえるだろうが、これも梵我一如と同じように最先端科学で似た仮説があり、意図的ではなく偶然に一致している。
現代の人類の科学では、感覚質(qualia)といわれる主観の問題すら解決できていない。
例えば、あなたが見た青と、私が見た青は、同じ色に見えているかどうかが証明できない。もしかしたらあなたが見た青は赤みがかっていて、私が見た青は緑がかっているかもしれない。でも、いつも「その色が青だ」と聞いているために、あなたは赤みがかった青が青だと覚えたし、私も緑がかった青が青だと覚えただけかもしれず、本当の色が純色の青でも、見えている青はそのとおりの青とは限らないのである。それでも、「こう見えている青が純色の青だ」と記憶した以上、不便はない。
この問題の具体的な例は「日本人はLとRを聞き分けられない(トレーニングがいる)」とか、ネコの鳴き声がドイツ語、フランス語、中国語ではmの発音に聞こえるが、日本語ではnの発音に聞こえるなどがある。料理や香水などでは味覚や嗅覚が師匠から弟子に教えることができないし、医療の現場では患者の痛みを比べることができない。
感覚質は「言語化不可能」で「私秘的」といわれる。
以上のように感覚質は比べることができないし、同じ感覚かどうかは証明しようがないのだが、驚くべきことに赤や青、緑、黄など見えている色は、本当はその色をしていないという。
まず、色というのはそもそも光線にくっついているものでもなく、物質についているものでもないということを理解しておいてください。例えば、虹は太陽の光が屈折率の違いから、波長がバラけたものですよね。我々にはそれらが、それぞれ違って見える。波長を識別する感覚があるということです。その波長の違いによって光線を識別できる感覚が色覚です。別に色が光線にくっついているわけではないんです。識別しているということは、つまり脳が色を塗っていると思ってください。
東京大学 河村正二教授
第2回 「色」は光にはなく、脳の中にある
ナショナルジオグラフィック日本版サイト
例えば目の前に赤いリンゴがあるとする。そのリンゴは実は赤いのではなく、リンゴから反射した光の波長を人間が目で捉え、脳がその波長は赤の波長だと判断し色を塗っているというのだ。虫や魚、鳥などは色域の範囲が人間より広かったり、色数が多かったりするという。それは生物の種類ごとに視覚と脳がちがうからだそうだ。
生物工学者ロバート・ランザは、この考え方をさらに進め、量子物理学を基に時間さえも人間が作り出したものだとした。
量子物理学の実験では、素粒子は位置が定まっていないのに、観測すると位置が定まる。定まっていないのは観測できていないからではなく、波長の性質をもち、観測すると粒子になることがわかっているからだ。ランザは素粒子の波長の姿を「時間の情報がある状態」、観測して粒子になると「時間の情報がない状態」と考えた。人間が観察したときに物質から時間に関連した情報がすべて失われるとしたのだ。それを世界全体にも適用できるという。
人が見ていないところでの現象は何も起きていないという。人間が観測して初めてその姿になるのだ。
これを生命中心主義という。
インド哲学の幻想現実について、次回紹介しよう。
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