非二元(ノンデュアリティ)では、インド哲学でいわれる神または宇宙原理としてのブラフマン(梵)と個人のアートマン(我)は同一であるという。ここでいう神としてのブラフマンは、宗教的な意味合いでの信仰対象としての人格をもった神ではなく、宇宙原理、物理現象の原理としてのエネルギー源または物理法則で作用する力学的なものである。
現代の人類の科学では、未だに人間の意識とは何か、脳のどの部分に存在するのかを解明できていない。
理論物理学者ロジャー・ペンローズと麻酔科医スチュワート・ハメロフのふたりが興味深い量子脳理論を20年前に発表した。ハメロフはこの理論に基づいて、臨床における臨死体験を次のように推測している。「脳で生まれる意識は宇宙世界で生まれる素粒子より小さい物質であり、重力・空間・時間にとわれない性質を持つため、通常は脳に納まっている」が「体験者の心臓が止まると、意識は脳から出て拡散する。そこで体験者が蘇生した場合は意識は脳に戻り、体験者が蘇生しなければ意識情報は宇宙に在り続ける」あるいは「別の生命体と結び付いて生まれ変わるのかもしれない。」と。
この意識情報という考え方は、過去の生命体の意識情報も宇宙に在り続けていることを意味する。さらには、宇宙に在り続けている意識情報から将来の生命体に「結び付く」というところに、さまざまな現象を説明できる可能性も示唆している。
日本人が打ち出した量子脳理論もある。治部眞里と保江邦夫は「場の量子論」を応用し、脳内の水の分子から記憶の仕組みを解明しようとしている。
いずれにしても、量子脳理論は人間の脳を量子コンピュータに見立てる試みとも言える。
量子コンピュータの開発に携わる機械工学者セス・ロイドは、電子や素粒子が量子コンピュータとして情報を処理できると考えている。情報を処理するということは、すなわち、思考しているというのだ。そこから、多くの原子が存在する宇宙全体が意識をもつことはありうるという。人間の脳は1秒間に10の16乗回の情報処理をおこなう。ロイドの計算では、宇宙が1秒間に10の106乗回の情報処理をしているというのだ。宇宙全体が巨大な量子コンピュータで、星を作ったり、生命体を進化させる情報処理をしているというのだ。
宇宙全体がひとつの量子コンピュータだとするのは、星と星の間があまりにも遠いため、想像しにくいかもしれない。太陽系と同じ銀河系の中でもっとも近い恒星でも4.2光年かかる。光の速さで4.2年といっても、現代の人類の科学技術による宇宙船で飛んでいけば3万年はかかる距離だという。銀河と別の銀河との間も想像を絶する遠さである。それでも、宇宙全体がひとつの量子コンピュータといえるには、人工知能の開発に取り組んでいるコンピュータ科学者ユルゲン・シュミットフーバーが提唱する超個体の考え方がその助けになる。
アリがグループで生命を維持するように、宇宙もひとつのグループとしてさまざまな問題を解決し維持していると考えるのだ。
アリはフェロモンで情報伝達をしているが、では宇宙はどのように情報伝達しているのだろうか。理論物理学者ステファン・アレグザンダーは素粒子ニュートリノがその鍵を握っているとみている。ニュートリノは質量がほとんどなく、物質を通り抜ける。我々の体も毎秒50兆個のニュートリノが通り抜けているという。
このニュートリノが宇宙全体に偏在し、量子コンピュータとしての情報処理を担っているとすれば、やはり宇宙全体がひとつの巨大な量子コンピュータの働きを持ちうるといえる。現在最速のスーパーコンピュータで数千年かかる計算でも、量子コンピュータでは数十秒で完了すると理論上いわれているので、宇宙全体が巨大な量子コンピュータとなると、その処理能力はまさしく究極の神ともいうべき、インド哲学でいう宇宙原理としてのブラフマンといえるだろう。人格はなく、人間は宇宙全体の情報を理解することは不可能であるにちがいない。
しかし、インド哲学ではそのブラフマンと個人のアートマンは同一であるという。宇宙サイズの巨大な量子コンピュータと、人間の脳のサイズの量子コンピュータと考えれば、サイズのちがいであって構造は同じだといえる。インターネットをたとえに使うなら、ブラフマンがインターネットで、アートマンはインターネットに接続されたコンピュータ端末と考えるとわかりやすいだろう。
従って「梵我一如」とは、「個人の脳が宇宙に接続した状態」を「一体化した」と表現することができる。インターネット全体はひとつのコンピュータとしては機能しないが、宇宙がひとつの量子コンピュータとして作動するならば、「宇宙=自分」という情報処理がおこなわれ、覚醒した人間は宇宙の創造に参加できるといえるだろう。参加できるといっても、一体化している以上、個人の思考はない状態であるから、その創造は個人の自由意志でなされたのか、宇宙全体の判断としてなされたのかは、誰も判断することができない。この辺りの解釈は、改めて解説しよう。
今回は科学的説明に終始してしまったが、次回はその起源をインド哲学のテクストから紹介する。
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