非二元(ノンデュアリティ)では「恩寵が起きる」といわれるが、本当に自然と何かが起き、私はそれを目撃するだけである。今までの私の努力は何だったのだろうと思われるくらい、自然発生する。
もちろん、起きたあとで、「これは何ですか」「これはどういうことですか」と本人から聞かれて、私は答えられるスキルがある――そのスキルさえも、自然発生するといえば、可笑しな話になるだろうか。
この不思議な現象は、やはり「すべての人がすでに目覚めている」としかいえない。その「本当はわかっているけれど、でも……」という歯がゆいところを私は刺激しているだけである。
「ですよね。でも、それでいいんですか?」と本人が当惑気味だが、それは本人がいちばんわかっていることである。
あなたの思考は、あなたの身体をコントロールする電気系統でしかない。しかし、われわれは、その電気系統を「自分自身」だと思い込んでしまう。「うまくコントロールしなければ、理想の自分は実現されない」と思い込んで、コントロールできない自分を「問題がある」と思い込んでしまう。
しかし実際の本当の自分とは、この身体を操縦している側の、車でいえば運転手のほうである。この身体は乗り物で、身体の能力がどのようなものであっても、それを操縦する運転手の価値にはまったく無関係の話なのだ。
本当の自分=運転手、脳・思考=車の電気系統、心臓=エンジン、身体=車体といったふうに考えれば、あなたの思考はあなた自身ではないことがわかるだろうか。「なんで自分はいつもできないんだろう」と自分の思考が自分を責めるとき、車の電気系統が車のエンジンや車輪、馬力、小回りが利くかなどを納得していないことになる。
しかし、実際には運転手がその車体にあった運転技術を磨けばいい話である。修理や微調整が必要であればすればいい。特殊車両を除いて、一般的な車はさまざまな形のものがあっても、一般的な生活のなかではどの車に乗ろうとそんなにちがいはない。少々速いか、少々広いか、小振りか、燃費がいいか……。ほぼ好みの問題である。生活のなかではどれでもいい。
少なくともこれだけはいえること。
あなたの車がどのような車であろうと、運転手の人間的価値を決める車体は存在しない。
どんな車に乗っているかで、その運転手の技術は推し量れない。すべては「あなたの思考の問題ではなく、思考があなた自身でもなく、あなたはあなたの運転手であることを思い出すだけでいい」
もっといえば、「どう運転するかすら考えなくてもいい」
そこまで来ると、車体も幻だったとわかるはずだ。
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