釈迦のさとり「五感と心を制御して苦しみをなくす」

釈迦は苦しみをなくすために師匠ハシゴをしてまで修行をして、答えを探しました。
そしてついに当時のブラフマン教では当たり前になっていた苦行さえも、五感と心で生み出した幻だと気づき、里におりてひとりでさとりを完成させました。

前回の記事でご説明したとおり、五感と心が「知らない幸せ」を想像させて「欲しい」「体験したい」と思わせ、「知らない不幸」が起きるかもしれないと想像させて「恐怖」を生みだしているということでした。釈迦は「五感と心」を「六根」、「知らないこと」を「無明(むみょう)」、「想像すること」を「迷妄」または「妄想」と表現しました。六根をもとに、無明の衆生が妄想することで、「ありもしない幸福」を求めて苦しみ、「ありもしない不幸」を恐れると、釈迦は解明してみせました。
その無明がなくなれば、「ありもしない幸福」を想像することがなくなり、「ありもしない不幸」を想像することもなくなるのです。

すると、釈迦の心の中に変化が起きました。さとると体験できるとされる「涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)」です。
おそらく釈迦はインドボダイジュの下で初めてこの体験をいたしました。

ここまでの釈迦の思考のステップをわかりやすく伝えるために、あるひとりの男性の人生の苦しみを例に挙げて説明してみましょう。

がんばってもがんばっても努力が報われない苦しみ

A夫さんは、志望大学に入れば望んだ会社に入れると信じていました。ところが、学力が伸びずに志望大学には入れませんでした。彼は大きく絶望し、望んだ会社に入れないかもしれない危機感にさいなまれました。
「とにかく、少しでも可能性がある大学に入ろう」彼は滑り止めに受けていた大学に入り、望んだ会社に入れるように日々努力しました。
彼は学生のうちに恋をしました。
自分のイメージダウンにならないように心がけ、意中の女性から嫌われないちょうどよい関係を続けました。「望んだ会社に内定したら告白しよう」
しかし、彼女は先輩と交際を始め、どんどん距離が離れていきました。
就活では望んだ会社の面接で落ち、路頭に迷いました。「俺の人生はなんだったんだ……」

彼にとって、「望んだ会社に入ることだけが幸福」という思い込みがありました。それ以外の幸福は妥協であり、敗北でした。
その思い込みのせいで、意中の女性への告白も、勝利してからでなければならなかったのです。
もちろん、その思い込みは親からの刷り込みだったからかもしれません。
そうであったとしても、釈迦に言わせれば「あなたの本当の幸せは何か。それを知りたいと思わないか」(よく説話に出てくるセリフです)となります。
A夫は、「きっと幸せだろう」と思い込んだ「望んだ会社に就職」を体験すらしていないのに、就職できなかっただけで「人生が終わった」と絶望しました。
それが究極の不幸なのか本当のことは何も知らないのに「もう自分は幸せになれない」と思い込みました。

「すべては幻」で済まされません。なぜなら、100%の努力をしても受からない大学に合格するために、彼は100%以上の努力を自分に強いて努力したのです。
110%、120%、もしかすると130%の努力をしたのかもしれません。睡眠時間を削り、青春時代を犠牲にして、すべてを受験勉強に捧げたのです。
それでも志望大学に受からなかったのです。だから彼は絶望いたしました。
彼の苦しみの本質は、志望大学に落ちたからでも、望んだ会社に落ちたからでも、意中の女性にふられたからでもありません。
極限状態で、意識朦朧となりながらもがんばったものが報われないなんて、彼にはもう「自分は何も報われない人生なんだ」と確信してしまったことなのです。
もし現代に釈迦がいたなら、対機説法(相手によって変える教え。人類史上、釈迦だけが得意とした)によって、彼に「努力すれば報われるという思い込み」を気づかせたことでしょう。
私が釈迦の対機説法を私のさとりで再現するなら次のようになるでしょう。
「ある者が特技で誰にも負けないとき、その者が生まれながらにもっている特技ははたして努力して手に入れたものだろうか」

志望大学には「努力した者が入れる」のではなく、出題された問題を得意とする人々が入れるのです。努力の程度ではなく、出題問題と得意分野の相性なのです。
どんな問題も解けるパーフェクトな人間になることは不可能です。努力如何によって人生の幸福度が決まること自体が馬鹿げているのです。
そんな簡単なことに気づいたとき、彼は大学受験も就職も恐れなくなるでしょう。なぜなら、受験に落ちても、望んだ会社に就職できなくても、もうそのことで彼は「自分が努力が報われる人間かどうか」で絶望しないのですから。
努力次第で人生が決まらないのであれば、別の道を歩んでも幸せになれる方法があると、自然に考えることができるようになります。
その解放感たるや、A夫は驚き、泣き崩れ、頭が真っ白になったあと、人生の希望を見出し、癒されることでしょう。

釈迦が体験した涅槃寂静という癒し

このA夫の例はよくある話とはいえ、他人からすればこんなことで悩まないという意味で簡単なことです。なぜA夫が絶望するのかは、同じ体験をした者でなければ本質を見抜けないかもしれません。
釈迦の「六根」「無明」「妄想」をヒントにすれば、A夫の苦しみの本質が見えてきます。それだけでも釈迦の発見は大きな意味があります。
A夫の目覚めは究極の真理とはいえないものですが、このたとえ話から釈迦のさとった涅槃寂静を推測することができます。

釈迦は「A夫のような思い込みからの気づき」を、釈迦自身が抱えている疑問や悩みすべてに当てはめ、すべての苦しみの本質を見出し、その苦しみから解放されて、完全な癒しを得たのです。
A夫は「努力すれば報われる」と本気で思い込んで死に物狂いでがんばったのに報われなかっただけで「何をしても報われない人生なんだ」と絶望し、そもそもの「個性を生かせば努力せずとも幸福になるのだから、努力で人生の幸福度が決まるわけではない」と受け入れるだけで、号泣と解放感、そして今まで味わったことのない初めての大きな癒しを体験するのですから、たったひとつの目覚めでこれだけのものなのです。
そこから、釈迦が得た「ひとつやふたつではない、すべての思い込みからの目覚め」を達成した解放感は想像を絶するものがあります。

それを釈迦は「涅槃寂静」と表現しました。
A夫が受験と就活を恐れなくなったように、釈迦がすべてにおいて目覚めたということは、完全に恐怖感がなくなったのです。

次回、非二元(ノンデュアリズム、ノン・デュアリティ)とのちがいにつながる「釈迦が得た神通力」を解説するために、インドの歴史を振り返ります。

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